昭和42年01月18日 月次祭
先日、小倉の中村という方が、まあ年に何回しか参って来ないという方なんですけども、正月にお参りをして参りましてから、正月の年始にお参りして来たんですが、あのお供えに御霊様の一番端にお供え致しております、中国のお酒、支那の(ゆうろん)酒です、どうもあの度の強いお酒らしいですね。そのお酒の、珍しいお酒が手に入ったからというのでございましょう。神様にお供えをしてあります。
私はその何気なしにおりましたけれど、ここであのぅ、先程夕食の時に、そのお神酒のことを頂くんです。した、私また、わざわざ神饌室に入ってみてから、それを手にとって見た所が、なんとそれがうぅん、「桂の花」という中国酒です。私是はもう何時もそれを思うので御座いますけれども、たしかに、椛目で頂いておるおかげというのは。私。私共の信心によってではなく、矢張りなんと言うても、初代、小倉の桂大先生のお徳であり、又は願いであり、それが思い広がって、それがどういう調子にか。
椛目にそれが現れておると言う様な感じが致します。いうならば、その桂先生と云う事の中には、勿論福岡の初代が、の信心があり、久留米の初代石橋先生のご信心が、その中に、同時に、私の親教会であります所の荒巻先生のご信心が、その中に、信心が祈りがあることは勿論で御座います。いわゆる、水源地であります所の教祖の神様後本部二代様、そして二代様のご神命を受けられて、九州の地に初めて神様のお供をして、九州の地におかげを頂かれた。
大変な難儀をなさり、苦労なさいましてから、それこそ血の出る様なご修行を私共の為にして下さって。そして多く人が助かる様になって、そして私共も又助かる様になったと云う事なんです。いうならば、桂先生の信心の、根がです、幹がそして葉がしこって、そして、ここで花が咲いたという感じが、まあ致します。私はそう確信致します。それとても、私共の信心で、現在の椛目の信心があるとは思うてません。そこにです、私共その花を受けるだけでは、出来んので御座います。
私共はそこに責任がある。その花が唯ぬれておるだけではいかん。「はあ、素晴らしい花だ」と言うておるだけではいけん。例えば、なら椛目でわずか十五、六年の間に、沢山の人が助かって来たと云う事やら、その信心の、お姿がああしてご造営の姿に現れておると云う事は、是は勿論で御座いますけれども、いうならばそれは、その桂先生のご信心の矢張り花が、椛目に合楽に咲き誇る様なものであると、こう思うのです。
皆さんがほんとに素晴らしい、素晴らしいお広前を建立されておると云う事をです、ただ素晴らしい素晴らしい建立、ご造営が出来ておるというだけでは相済まん。その花を愛でておるだけでは相済まん。そこでその花がです、私共はいよいよ実りにならして、頂かねばならないと云う事。その実りが又、沢山の一粒万倍の元を取らして頂く様な、九州全土ではない。
、桂先生の願いであります所の、世界中の氏子が真実助かる事の為に、金光大神の道を世界万国に広めんと、いう不退転の桂先生のご信心を、私共が継承さして頂いて、そこの所のおかげを頂かして頂かねばならんと云う事を、是はもう、ほんとにそういう責任をひしひしと感じます。ただ華やいでいるだけではいかん、華やか外ならず散るもの、いわゆる仇花で終わらしてはならん、その花が見事に結実する、実るというおかげを頂かなければならんと思うので御座います。
昨日、山口の長田先生が、この前の久保山先生の教会葬の時に、あちらの主人の先生、教会長先生がご会葬下さっておりました。もうそん時の模様を帰ってから、まあその奥さんであります所の先生に話された。「もう金光教の、お葬式も随分見たけれども、随分拝まして頂いたけれど、あの位、お徳の中に、あのお祭りが仕えられるというお祭りを、まだ拝んだ事がなかった。もう拝む様にして有り難かった」と。
とにかくもうお葬式そのものが、御理解だったという意味の事を言って、非常に感激しなさったです。ですからご主人もお悔やみ方々、年始の方々昨日はまあ出て見えられた訳なんですね。有り難いですね。そりゃほんとにお悔やみだけというだけではなくてですあのお葬式そのものがです、ほんとにお徳によってあの式がなされておる。しかもあのお祭りというか、式典全体が、もうそのまま私共に何かを教えなければおかんという御理解そのものであると言う様な受け方、頂き方っていうのが素晴らしいです。
あの先生もほんとむごい事であった、ほんとに悲しい事であったと言う様な事だけではないのです。久保山先生の御霊も、さぞかしお喜びの事であろうかと私は思うので御座います。そう言うて、御礼参拝が御座いましてから、ここ今日私の親教会の月次祭で帰ったら、ここで待ち受けて頂いておりました。それでまあ、ここへ参られる間に、いろいろ神様からお知らせを頂かれます。
そのことを、もうずっとその、お伺いしなされなければ帰られませんのですよ。そういう中に、こちらへ出がけの朝で御座います。こう言う様なお夢を頂いたと言われるのです。私共のある信者が梅の木を持っておると。その梅の木に一杯梅がなっておる。所がその梅の木が、梅の木になっている梅がですもうこう熟してしまってですね、もうまさに落ちりゃせんかと言う様な感じの梅であった。はあ梅が、そう言う風にを熟しきったんじゃこりゃもう値打ちが無い。
まあ柿が外の果物ならばまあ熟しても美味しいんですけれども、梅の実の熟したというのはこりゃ役に立たん。と言う様なお夢で御座いました。で私申しましたここでは梅とは信心辛抱とこういうと。ですからその信心辛抱がです、例えば何十年間金光様のご信心を頂いておりますと云う事が、続いておるというだけではいけない。もう自分も何年信心を続けておりますという、辛抱し抜いておるというだけではいけない。
朝参りがどれだけ続いておりますというだけではいけない。信心辛抱梅の花、やがて鶯が来て止まる所までのおかげではダメだ。その鶯の来てとまる事も有り難いけれども、その花から出るこの香りをかぐ事も有難いのだけれども。その後に散った後の実りが素晴らしいのであると同時に、その実りが今度は熟し過ぎただけではいけない。そういう(?)お道の信奉者の信心を継承しておる、続けておる人達であるならば、もうほんとに、「あの時だけは忘れられん」
「あの時はあんな広大なおかげを頂いて」と言う様な、鶯が来てとまった、花が咲いたと言う様なおかげを、やっぱり頂いておるので御座います。ですから何十年間かやっぱり( ? )やめれんのです。所がですそれが段々梅の実が熟してしまうと言う所まで、そのしておると云う事は、いわゆる本当の信心辛抱の、徳になってないと云う事を感じます。信心辛抱だけではいけん、信心辛抱の徳が頂かれなきゃならん。そこん所を、私は感じる。先生そんなら、どう言う様な信心させて頂いたら、その梅の実が、いわゆる徳になる様なおかげが頂けましょうか。
それはな、こう言う様な事ですよと言うて、お話をさせて頂いたんです。世の中は、天と地をかたどった所からでけておる。世の中はもう一切が陰と陽との合体によって、一切がなされておる。言うならば、白と分かる。あってそれが、おかげなのである。陰あってよし、陽あってよしね。天地の働きの中には、私共人間万物の霊長であるから、万物の霊長としての値打ちのある信心とは、万物を見て道理に合う信心をせよと仰る。それなんです、ね。降る事もあって良いのだ、照る事もあって良いのだと。
所がです、さあ降り続けると、どういう事になりますでしょうか。折角その植えた野菜なら野菜が、あんまり降る為に根腐れをする。さあそれかというて、今度はあんまりお日和りが続きますと、何もかもが枯れ上がってしまう、干上がってしまう。是でもいけません。そこんところに、降る事と照る事がです、調和が保つって行く様な、私おかげを頂いて行くと云う事が、ものが育成する事と云う事と同時に、おかげが生まれて来るんだ、お徳が受けられるのだと言う風に思うのです。
そこで、私共の人生の、いわば、人生航路の中に、矢張り降る事もある、照る事もある。痛い事もありゃ、嬉しい事もある、悲しい事もあるのです。その両方両極端のものがです、相離れず、是が相沿うて行くと言う所におかげがあるのです。陰と陽とが合体する事によって、行動する事によって、人類が生みなされて来る様に、私共の人生航路の上にも、そういう様々な、降る事であろうか、是が照る事であろうかと言う様な事がです、信心によって、有り難いという答えの出されて行く様なおかげを頂かして貰う時に、それが徳にならない筈がない、それが実りにならない筈はない。
桂先生いや天地の親神様が、教祖の神様を通しそして桂大先生のご信心を通して、私共手続きの各先生方の信心がそう言う様な信心を、私共に受け継がせて下さって期せずして可愛いそう言う花が咲いた。その花、私共が「花が咲いた花が咲いた」と言うて、喜んでおるだけではなくてその花をですいよいよ結実いよいよ実りにして行く所の責任をです、銘々が感じさして頂いて、それを見事な結実と云う事になった。
それを又一粒万倍になって行く様なおかげを、是から頂いて行かなければ、神様に対しましても、桂大先生に致しましても、相すまないと云う事になるのです。ですから、どうすれば、その梅がです、梅干になって、しかもそれが何時々までおいても悪くもならない。どんなに重体の病人だと言うても、お粥さんに梅干なら障る事もない。食べられない者でも、食べられる様になる。
そういう、例えば、人の命の根にも肥やしにも薬にもなる様な徳というものを、私共が頂かして頂く為に、梅がただ信心辛抱長々と信心が続けられておるというだけではなくて、その信心を続けて行く道すがらに、起きて来る様々な問題というものをです、あれも有り難いなら、これも有り難いんだと分からして頂く信心にならなければ、ならんと云う事になるのです。「はあ、先生、そこんところが分かりました」と、
今まで何十年信心辛抱して御座る、何処々ん教会のはもう、何十年の今度丁度あちらが、丸二十年の式年祭が来年あるそうです。それで先生うちの先生が言うておられますのに、信者に相談してから、下の方はもう扱わんでいいから、二階の方ば総二階にしたいと思う。とこう言われるから「はあそれはどうでしょうかね、なら椛目にいってご神意を伺いましょう」と言うておりましたら、その翌日お夢を頂いた。
そのお夢が、こう云う様な、お夢であったというのが、まあ具体的に言うとですたいね、信心は(?)芯なりだと。だから、是がもし椛目であるならば、私は、総代にも信者にもです、誰ぁれにも話さないだろう。さあ記念祭だからって、二階だけ造らせるて言わんのだけれども。だから、そりゃ、あのいえば、言えれる中心の信者がおります。けれども、その言うた、だた言うたんじゃいかん。はあ、神様のおかげだなと、思わして頂ける様なチャンスを頂いた。
神ながらにその事が話せる、話し出せれる様な、お繰り合わせを頂け、というお夢を頂いておられる。だからそのへんは実にその、何と申しますかね、信心のその一つの力というか、それぞれの過程というか。是が本当と云う事はないですね。例えば、先生がですね、信者に頼まれると云う様な事でもです、まあほんとに、矢張り頼まれても、良い様な場合もあるっと云う事です。
段々そこを分からして貰い、神様が確信、いよいよ、その働きを分からして貰う様になって、ね、神様、あんた達にゃ頼まん、神様だけに頼むだけだ、と云う様なあり方にでも成って来るんだけれども、まあ椛目の生き方はそうだけれども、ま、そこんところのお繰り合わせを願わして頂きますから、そういうお繰り合わせを頂いて、何か自ずとその事が話し、話し出せれる様な、お繰り合わせを頂かなきゃいけませんよ、と言うてまあ話した事ですけれどもね。
だから、人事とか人間心というのもです、神様にお願いをして、おかげを頂けばよろしいですね。現在、椛目の状態を思いますと、例えば、ちょうど久保山先生がが明日、お国替えのおかげを頂かれてから、10日間余りの間に、3つのお葬式を、椛目ではおかげを頂いた。2番目が、その翌日、伊万里の、池田という熱心に、お参りをして来ておった方があります。あの長靴ばきで女の方が、伊万里から歩いて来たという方が、ありましたでしょう。あの方のご主人。
非常に熱心そしてその久保山先生と同じで非常に達筆家だった。ですから伊万里の御理解の収録は、そのご主人がなさっておった。ここにお参りをした事はないんだけれども、御理解をその写すと云う事に現在足がああして体が悪かったんですから、それでその事がもうひとつの楽しみの様にしてから、書き留め続けておられたそういう方なのです。先日からあの椛目の御理解をその書きながら、いわゆる味おうておられた。
もう亡くなられますほんの寸前に電話が掛ってまいりました。重態に、重態で御座いますから、どうぞ、あのお願い致しますと云う事であった。丁度昨日、一昨日でしたか、親子3人で竹内先生が(?)一緒になられましたんですけども、お礼参拝が御座いました。是から御霊の助かりの事に付きましても、今後の事に付きましても、また主人がこう云う事申しましたと云う事に付きましてもです。
お前達は本当に日本一の先生を頂いて有り難い。是からは先生の仰る様な信心をさして頂いて、幸せになってくれというのが、最期の願いであった。そして、天地書附を唱え、唱え、意識が、なくなられたと云う事が御座いました。もう実にその尊いお国替えで御座いましたと。言うてからその人のお礼を申しておられましたがです、そう云う様な事。それからそのぅ15日でしたかね。
久富繁雄さん所のお父さんが長年休んでおられりました。もう84歳、5歳です。85歳の高齢でお国替えのおかげを頂かれた。それがそのほんとにその、まあ様々のおかげを頂いて有り難いという参拝もあるかと思うと、そう言うような人間の、人生の中にですね、もう一番悲しい事と言った様な事に直面する様な方達が、椛目のご信者の中に3人もこうやって続いたと云う事は、それはいうならば、まあ陰の事だと、こう思うのです。いうならば、地の事だとこう思うのです、(?)だと思うのです。
おかげを頂きましたと、いうなら是は、天の事。その最近夕べの御理解頂きなさるとよく分かるんですけれども、最近おかげを受けて神様の働きというものがです、もうとてもとてもです、こうこの海外だけではないのです。京都あたりから、福岡あたりから、もうそれこそ生き生きとした、もうほんとに神様のご都合というのは恐れ入ってしまうなあ、と云う様な働きがあっておる話が沢山あるんですけれどもね。
そういう神様の生き生きとした働きと云う事と同時に、その事も矢張り神様の生き生きしたお働きであると云う事なんです。そういう(?)が一つになってです、その有り難み頂かして頂いてです、神様のご都合として頂かせて頂くと云う事。又事実、神様のご都合といわなければおられない程にです、椛目に様々な、いうなら会合等やら宅祭りが御座いますけれども、どの一つだってですね、その重なると云う事がないんです。
杉さんところの(?)が例えば、お宅祭りがある。翌日が久富さんの所のお葬式がある、と言った様な具合にですね、もう実に、成程神ながらな事であるなあ、椛目全体をひっくるめての神様の働きというものを感じん訳にはまいりません。ですから、ですから私ども凡夫でもです、神様のご都合に違いはないと確信ができる。その事の中に、分からないけれども合掌して頂く。
頂いて行く以外にはないのだと、云う事になって参ります時に、さあ、例えこう唯今が申します様な、生き生きした働きと云う様なおかげというものがです、それと是とが一つになってよいものが生まれて来る。そこんところが、ね、(?)だけが有り難いという信心だけでは、それは50年、100年続いても、矢張り信心辛抱で、その梅の実が塾して又落ちて来ると、云う様な結果にしかならないのだけれども、そこんところを私どもが大事にして行こうと言うのである。
そういう夕べの御理解を頂いて、その後で御座いました。田主丸のむつ屋の田代さんが何か電話しておられました。「もう先生、今日頂きました御理解の通りで御座います」と。もうそれこそ、私共はそう言う様な事がです、日々の中に、もういくらあるか分からんのです。腹の立つ事、嬉しい事、その腹の立つ事の中にでもです、ご神意を分らして貰って、有り難いというものを出していかなければ、今日私が申します、桂先生の、言わば、ここに花が咲いた。
その花を鵜呑みにして行く事は出来ないのです。そこに私ども人間の本当の助かりがです、椛目に成就する。今そういう気が致します。この信心を体得した時に,初めて人間の幸福と云う事が言えれるのだと云う事を感じます。そうで御座いましょうが。痛い事だって、名指しをされる様な事だって、(?)有り難いのですから、降っても有り難いなら、照っても有り難いのですから、是を幸福と言わんで、何で幸福というものがありましょうか。照る時だけは有り難いけれども。
降る時は有り難くないち言うたらもう幸福はない。(?)が言われる様に、今日は先生、ある所から、丁度年末忙しい時分に売っておりましたならが、すごく立派なもんだったんでしょう、そういう金額のものを売っておった。所が、それが返品になって返って来たんです。皆さんどうですか。折角良か商いしたと思って思いよった。したら返って来た。そげな(?)からまあ取っときなさいち言うて、(よいすまた?)いらんちいい御座るをまた向こうに押しやる事がなかろうか。
もう縁起ん悪か、もう折角買うたもんば返品して御座った。と言う風に口には言わんでも、心の奥になかろうか。あいたこりゃいくら儲け損ねた、と云う事がなかろうか。このものをです、私はすっきりして行きたいと思うんですね。売れる事も有り難いのならです、返品になって来る事も又有り難いのです。いや、神様のご都合なんです。どういうご都合か。もっともっと良いおかげを下さろうとするご都合なんです。
そこんところをいい加減にする所に、おかげになる事がおかげにならずに、所謂返品は返品、痛い事は痛いで終わってしますのです。ね。それから田代さん、。それはもういいですけど、是はいくらで売ったかが分からん。こりゃ茂るさん。あの時分、の伝票出して下さいというて伝票出さした。(?)厚いその伝票を出してから、そしてから一番上にあるとをちょっとはぐった所に、その、売っておった人の名前があったと。もう先生、その時に感じましたと。
売れる事も有り難いんですけれども、返って来ると云う事も矢張り、神様のご都合だから、有り難いんだというのですから、ここんところを、「はあ、けっこうですよ」と実意丁寧でそれを受け取らせて頂くと云う事がです、今日の御理解を頂いてよぅ分からして貰いました。商売さして頂いておりゃ、何時もそう言う様な事はあるんですけれども。ですからそこんところをそうだと、思い込まして頂いておったら、どれ程返品が参りましても、それを、「はあ、けっこうですよ」と。
「また(?)お願い致します」と言うて、快う返さして頂くと言う所に、私は、今日私が申しております所の、(そねがみのうじなん?)というおかげが受けられると思うので御座います。ね。それから、そろそろ届くかと言うてですね、そのまた色々買い物して頂いた。で、結局は1万5千円余り余分に、また買うて頂いたと。お金をあげるだんじゃない。また余分に、言わば商売さして頂く事が出来たと云う様なおかげがです、次にはあるんです。その形に見えなくても、見えなくてもです。
それはおかげがあってるんです、あるのです「目に見えるおかげより目に見えぬおかげのほうが多い」と仰る。是はまだもっともっと大きいそれはそう受けたと云う事が。先生があげん言わっしゃったから(?)はいよ御座いますち言うたばってんあとは買わずに帰らしゃったち言うてもうがっかりしちゃあいけませんのですよ。信心さして頂いておられるうえのおかげより目に見えぬおかげほうが多い事を確信さして貰うて。
そこんところを、実意丁寧に大事にして行くと云う事の信心がなされて行く時にです、それが花が実になって行くと云う様なおかげになるのです。売れる事が有り難いなら、また返品になって来る事も有り難い、ここんところを一つ(?)いかないかん。もう椛目ではですね、ここのところだけを本気で、私は焦点にして信心さして頂いたらです、もう真実を神様が願うて下さる。
「氏子信心しておかげを受けてくれよ」と仰るおかげが必ず頂けれる、必ずそれが花が実になり、徳になる所のおかげを頂けると云う事を、私は思います。そこの所をいい加減にして、ただ売れた売れたと云う事だけのおかげに留まった、是は何十年信心が続いても成程売れもしましょう。けれども、それが花が実になる。徳になると言う様なおかげにゃならんと云う事をです、皆さん思うて頂かなければいけんと。現在全国教会一斉に寒修行が始まっております。
是は何の稽古事でも、修行の伴わないものはありません。寒稽古、寒修行という言葉をもって、その寒中わざわざ、その暑い盛りをわざわざ選って、修行する道を体得しようとする精進なのです、まして信心ですからそれがあるのは当たり前。「はあ今日はもう寒かけん、もう今日はご無礼しよう」「今日はもう雪の降ってからもう滑ってから危なかけん、もう今日はもう雪の解けちからどもお参りしよう」と言う様な事では寒修行にはならんですよね。私今日、波多野さんから見事な色紙を頂いた。
それも私先日から、その波多野さんに、色紙が欲しいと言うたんです。はあ夕べしもうたと思うたんです。今日は波多野さんの事じゃから、必ず買うて来なさるじゃろう。私大体それで頼む事をしない流儀なんですから。あなたそげんお金?、(?)と思うてから、その頂いた一枚に、私は一筆書いた。そして、今朝の御理解を聞かして頂いた。何億かけてた、何億もの、素直に頼めれたおかげなのです。
何億何億に、何億に、素直に頼む。皆さん今日の朝の御理解を皆さんがです、一つよーう(迷い迷う?)心で、素直な素直な心で「先生、そうですもんね。そうでございますね」。ほんとに、その事を本気で頂きますと、皆さんがその例えばその、聞いておられる皆さんの銘々の顔にですね、そういうものが感じられる人と、出来ない人がある訳です。(?)売れるばっかりならよかちいうごたる顔しとるとっとがある。素直に聞けんのです、素直に聞けない(?)。そして素直に見なければいけません、物事を。(迷うて頼め?)と書いてある。
どうでしょう(笑)昨日です、久し振りに私父と二人ここで、お昼の食事をさせて頂いた。愛子がもう寒い寒いて言うてから、そのお配膳をしてるんです。そしたら父が「お前今日おまえだん寒かか」ち言いよりますもん。こげぇん寒かじゃんち言いよる。所が、俺はいっちょん寒うなか、(?)温くかち。したら父が申します。お前どんがその神様にいっちょんお頼みばしよるめていち、こげん申します。あのそれとして頂いた時にです、今朝の御理解頂いたんです。
はあ素直に頼まないけんなあと。昼はその寒か時には暖房を、あのストーブ焚きますけれども、今日あたりも焚いてはおりません。ぬくいです、ね。そして晩に休まして頂く時には、布団ば愛子ちゃんお炬だけじゃいかんばいち言ってから言いよります。布団ば拝むだけじゃいかん、頼まないかん。もう今夜はちった寒が、非常にきついいう様に御座いますから。どうぞ暖かに休まして下さいと言うて、布団ば拝むだけじゃなくて頼めとこう云う。私それ聞かせて頂いてから。
なるほど自動車に乗る時は拝むだけじゃいかん、やはり頼まんといかん、こう感じたら。もうそれこそ(?)様な道を走らせて頂くの御座いますから、どうぞ滑ったり転んだりが御座いません様に、怪我ない様にと、素直な素直な心で頼まなければいけないと、私は思いました。はまる事なんです。そういう例えばです、それこそ不思議なです、この寒いので、このそれこそもう布団の中におっても寒さを感じるような中にあってです、寒さも感じん程のおかげが受けられると云う事なんです、実は。
だから私は尚然も、素直に聞かして頂くと同時に、素直に物事を見ると云う事と、同時にです、素直に素直に、私は頼まなければいけない。もう頼まんで、神様は知って御座るもう頼まんでん。神様は見ござる。是はあまりもの信心じゃと、私は思います。もうそこんところを、何事も一切をです、御取次を頂いてとか、というてそのお頼みするという、その父の言葉はです、私は非常に私の心に、にいうか、今までなかったものが、入って来た感じが致しました。
お願いをするという言葉ならあるけれども、矢張り、お頼みをすると云う事の実感がないですね、矢張り。成程教祖の神様も「一心に頼め」と仰っておられる。ここんところをです、皆さんが直く聞かして頂いて、どうぞ直い心で其の事を頼まして頂いて、おかげを頂いて行かなければならない。同時に、おかげおかげという信心がですね、どういう椛目の場合は、信心の焦点かというと唯今申します様に、今日のお供えの中にあります、桂の花という、支那のお酒の事から感じさせて頂いて、椛目で頂いておるおかげというのは、成程初代先代又は桂先生辺りの大信心、大修行がです。
その根がです、葉になり、そしてそれがしこって、そして春に、に、丁度椛目は巡り合わしておるのである、その花が咲いておるという姿が、皆が助かっておる時にはそういうものなんだ、ご造営のあの、ご造営の成就というものがです、いうならば、桂先生の信心の花があすこに満開するような感じが致します。とてもとても私共の信心じゃ出来る事ではない。そこの所の信心の花がです。
私共の信心でよって、それを見事な実りにして行かなければならない。しかもその実りがです。一粒万倍の元にもなる様な、おかげにして行かなければならない椛目全体の者にです、私を中心として、そういう責任をです、私共が感じさして頂いて、そういう信心を自分の身に付けた時に、私自身が助かって行くと云う事になって来るのであると、云う事を思うので御座います。
だから、ここんところに焦点を置く以外にはない、椛目の信心は。どうぞ、天と地から成り立って居る所の、一切の育み出されて来る所の、おかげというものがです、そういう例えば、その(?)言わば売れた売れたという時の有り難い事もさることながら、また返って来る事も又、神様のご都合として、有り難う受けさして頂くという信心から、次もまた倍増しの、売り上げのおかげになってくると、云う様なおかげを頂いて行かなければならんと思うので御座います。
どうぞ。